Back to Top Last updated:1 Aug. 1999
Japan-Australia Society of Ehime
高須賀穣物語
日豪を結ぶコメの懸け橋
リチャード・ハウエル氏による描絵。オーストラリア米のパイオニア・高須賀穣の生活を描写。
高須賀賀平は松山藩の料理長でサムライであった。賀平は息子の伊三郎(穣)が18歳のとき、その家督を穣にゆずった。穣は松山地裁判事前島道元の娘、前島イチコと結婚した。

この絵にかかれた1905年にはオーストラリアから日本へ、4本の道が通じていた。すなわち穣、イチコ、幼い息子昭と幼い娘の愛子である。1906年には高須賀ファミリーに対し、コメ作りのために200エーカーの土地が政府から割り当てられた。

絵の右下には高須賀家の様子が描かれている。穣も昭もシャベルを持っているが、これはオーストラリアの農業発展のために死力を尽くしたと言う彼らの苦闘を物語っている。イチコが穣の後ろに立っているが、男2人の戦いを(まだ生まれぬ次男のマリオとともに)見守っている。娘の愛子はその母と家族を支えるように立っている。さらにその後ろには仕事を共にした「松」、「愛媛」「ロフティ」と名付けられた馬たちが描かれている。

絵の中心は高須賀家の土地である。家は賀平が1908年に日本からオーストラリアへ持ってきたモミの15袋から芽生えたコメを表わす小さな点にかこまれている。穣はこのモミからよい品種を選んでこの絵の右側に描かれている水田に植えたのである。

何年もの間河は洪水し、高須賀家の努力が無に帰す年が続いた。またある時には河の水がすっかり干上がってしまった年もあった。穣と昭は大変な努力をはらってこの絵にあるような洪水をコントロールするための堤をつくった。 

1914年、穣はついにコメの商業生産に成功した。その半分をニューサウスウェールズ州の農務省に売り、昭は自転車に乗ってモミとコメ作りの技術をリートンまでもたらした。高須賀のモミはリートンではじめに試みられたコメ作りに使われたのである。それから反取の高いジャポニカ米の研究に力が注がれ、10年後にはオーストラリアの農業の中でも最も成功を収めたコメ産業へと発展することとなった。 

1939年、穣は愛する継母が松山で死んだため帰国したが、このことは一家から離れる一本の道として描かれている。彼の通る道で稲穂が頭をたれて尊敬の意を表わしている。1940年2月15日、高須賀穣は永遠の眠りにつき、両親の墓に葬られた。

オーストラリアのコメ農家と高須賀穣、イチコの子孫は彼らの苦闘の歴史がオーストラリアと日本を結ぶ歴史の中で生き続けることを望んでいる。1994年3月、オーストラリアコメ生産者の代表が、松山市の高須賀穣の墓を訪れて、オーストラリアンライスのご飯を墓前に供えた。 

「高須賀穣-オーストラリアコメづくりのパイオニア」の絵は1994年6月、高須賀穣の4人の孫を含むオーストラリアの訪松山使節団から松山市民の皆さんにプレゼントされる。 

引用:オーストラリアン・ライス生産者組合のリーフレットより
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